世界のKATSU
シンナーが欲しいです。(薄め液的な意味で)ベレー帽です。こんばんわ。
唐突に勝新ブームが来襲です!
この1989年版「座頭市」はベレベスト邦画編に入っているのですけど(まだ充分でないので未公開リスト)私も全部のシリーズを見たわけではないです。amazonレビューなどで一本だけ見るならってことではこれでオヌヌメとのことなので監督・脚本も勝さんですしね。座頭市VS用心棒は見たのですけどあまりテンポがいいとは思えませんでした。
私としてはたけし版、座頭市を許しがたく思っています。理由は作品の出来云々ではなく、未見の人が先にたけし版をみてしまう可能性が高い状況にあるためです。現にyoutube検索やniconicoでもたけし版がヒットしてしまいます。たけしもファンなんだったら自重しろよ…。
う〜む、うちの標準IMEだと「ざとう」を変換出来ない…また安易な言葉狩りでしょうか?
盲目の居合いの達人と言う設定の素晴らしさや、ラストの圧倒的な大立ち回りの殺陣が素晴らしく、スピーディな殺陣は芸術の域に達しています。
当然その人気は日本に留まらず世界中で愛されています。特にアジアでの人気は素晴らしくブルース・リーもその一人
- 151 :なんてったって名無しさん:2008/04/25(金) 00:34:45 ID:WoJcFhBU
- ブルースリーは実は座頭市を敬愛していたらしいな
怒りの鉄拳での道場の立ち回りとかモロに市の動き
盲目の剣術士で映画を撮る予定もあったとか(白目を剥いてるリーのスチールも存在する)
宮本武蔵の五輪の書にもある多人数を相手にする際の極意
・壁を背にする
・相手の足元に気配を悟り円の動き
・細い路地に入り一人ずつ対峙する
さすが武道家の勝新
- 49 :なんてったって名無しさん:2006/08/14(月) 00:57:07 ID:JDHp9P1F
- 20世紀最大の画家とも賞されるバルチュスは勝新の大ファンだった。
麻薬で出国禁止の勝を
バルチュスがスイス政府に頼み込み特例措置でスイスの自宅に招待してる。
キューバのカストロも勝の大ファンで国賓待遇で招待してる。
キューバでブルースリーと座頭市はヒーロー
ではここからは勝新伝説をwikiや2chから
勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 - 1997年6月21日)は俳優。歌手活動もしていた。本名は奥村利夫(おくむら
としお)。愛称は「かつしん」。長唄三味線の杵屋勝東治の次男。東京都江東区深川の生まれ。妻は中村鴈治郎 (2代目)の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。長男は鴈龍太郎。
勝新は俳優になる前の10代は長唄の師匠をやっていたのですけど
128 :なんてったって名無しさん:2007/11/11(日) 16:21:21 ID:/bx8FQHS
- 昔、勝新太郎の自伝に書いてあったけど、
昭和29年ぐらいのときに長唄の公演をアメリカ各地でやったとき、
ハリウッドの撮影所を見学にいったんだと。
そのとき、撮影所の関係者がひとりの若者を勝に紹介し、「彼は我が社の
大型新人で、来年の今頃は世界的なスターになってますよ」と言った
一年後、その若者は日本でも大人気になっていた。
その若者の名はジェームス・ディーン。
こういった事があって俳優を目指します。のっけからSUGEEE
好きな食べ物はオムライス。自身のイメージにそぐわぬ為、京都の撮影所近くの飲食店で食べるときは店の奥で隠れて食べていた。
- 晩年は好きだったB'zのライブにも度々顔を出していた。もともとB'zを聴くようになるきっかけとして、B'zのボーカル稲葉浩志との出会いがある。とある居酒屋で勝が飲んでいたところ、そこに稲葉が来店し、その瞬間一目惚れをしたらしい。「裕次郎以来、最高の男を見た気分だ」と稲葉を絶賛、俳優としてデビューさせようと試みるも、稲葉がB'zのボーカルであった事が分かり諦める。その後、時間の許す限り自ら購入したチケットでライブに訪れていた。ある横浜でのライブに感動した勝はいきなりステージに上がり、稲葉に兄・富三郎の形見の品であるテンガロンハットをプレゼントしている。このテンガロンハットは今現在も稲葉の宝物として、稲葉のプライベートスタジオに大事に飾られていると稲葉本人が発言。病気の療養の為入院した時も、稲葉から贈られた彼のソロアルバム「マグマ」を亡くなるまで何度も聴いた。中村玉緒は「最後にもう一度だけでいい、稲葉さんに会わせてあげたかった」と発言している。
- 生前、カーペンターズの曲をよく聴いていた。その為、妻・中村玉緒がトリビアの泉にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて…」と言っていた。
- 60年代後半にはいると大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのため、ストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」事を勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映NO.1となったと勝は語る。しかしすぐに雷蔵のギャラも500万円となり並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。ちなみに入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであった。雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。
- ブレイク前のミスターマリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。
- ファンサービスも旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはない。(テレビのインタビューで鴈龍太郎が語っていた)
- 「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることはザラだったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満して役柄も限定されるようになり、大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、借金取りにまで追われる生活であったにもかかわらず借金で豪遊、高級車に高級な服と外見は豪勢な生活を続けた。そのため債権者や妻の玉緒らに迷惑をかけ、とうとう死ぬまで返済できなかった。
- 舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役で、あまりの填りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次がとんだ。
- 石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。しかし、ある酒宴の席で大げんかになってしまった。そして、勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と言うと、裕次郎も「あ、ああ、いい芝居だった。」と言い、それで手打ちとなった。
- 1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言。しかし玉緒に相手にされなかったため離婚成立せず。
- 1990年、麻薬取締法違反で逮捕されたため、5億円の制作費を費やして作ったキリンビールのCMがたった1日で打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償をおこされた。
1996年7月に下咽頭癌を発病し手術をせずに、抗癌剤と放射線治療を行なった。入院中も外出を繰り返し寿司や酒を楽しみ、煙草は絶対に止めなかった。約4ヶ月後の同年11月の手術後の記者会見では「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙した(一説には療養中は禁煙し、後の喫煙はパフォーマンスだったとも言われている).
- 上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年は兄の若山が死去し、納骨式の時にカメラの前で兄の遺骨を食べ、涙を流した。さらには1996年、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。父がなくなる数日前から添い寝し、施主も務めた勝は墓前での納骨式の際に火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、勝の肉親への強い愛情を改めて印象付けた。
- 晩年、妻・中村玉緒に対し、「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を送った。
- 死後に残った莫大な借金は、香典代わりに債権を放棄した債権者もいた。
- テレビアニメ『無敵王トライゼノン』には彼と妻である中村玉緒をモチーフとしたキャラクターが登場している。
- 中村玉緒によると「亀岡(京都府亀岡市)にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという(朝日新聞京都、2007年12月26日)。
ただし悪い話もあります。
プライベートでのトラブルが絶えず、1978年に、アヘンの不法所持で書類送検される。
1979年には黒澤明監督の映画「影武者」の主役に抜擢されるが、監督と衝突して降板。
1981年に勝プロダクションは12億の負債を残し倒産した。会見時に「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年1982年中村玉緒を社長とした勝プロモーションを設立する。
1989年に長年の沈黙を破り、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・奥村雄大(現・雁龍太郎)が真剣を使い殺陣の撮影中、死体となっている役の役者を刺し死亡させてしまう。これが勝新太郎の最後の製作映画となった。1990年の黒木和雄監督の『浪人街』が最後の映画出演となり、以後は舞台などで主演を務める。
1990年1月16日にアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル空港で、下着にマリファナとコカインを入れていて、現行犯逮捕される。記者会見で「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのかって事を知りたい。俺が知りたい。」と最後までとぼけ通した。結局誰から麻薬を受け取ったのか、最後まで口を割ることはなかった。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。1992年、帰国後日本でも逮捕され、懲役2年6ヶ月執行猶予4年の判決受ける。
こっからは更に怪しいですが
- 15 :なんてったって名無しさん:2006/04/04(火) 23:02:04 ID:F6NqF2+n
- 麻薬撲滅パーティ参加にはワラタ
- 16 :なんてったって名無しさん:2006/04/06(木) 16:49:35 ID:PUF4O87t
- 「芸能人は法律なんて知らなくていい」って言ったの勝新だっけ?
- 48 :なんてったって名無しさん:2006/08/14(月) 00:17:10 ID:p2uUK1XM
- あるとき中村(萬屋)錦之介、勝慎太郎、裕次郎3人が温泉に行った。
裕次郎が温泉の洗い場にに入っていったがあわてて脱衣所に戻ってきて、
居合わせた勝に言った。
「兄弟、あいつの物が凄いんだよ。俺、恥ずかしくなって戻ってきたよ。」
それを聞いた勝は裕次郎に言った。「心配するな、俺のを見ろ」と言って
一物を裕次郎に見せた。
裕次郎は安心したようににっこり笑って、勝と一緒に洗い場に向かった。
笑い話のような実話である。
- 20 :なんてったって名無しさん:2006/05/02(火) 19:46:15 ID:1i/1jWiP
- 石原裕次郎とは租チン仲間でお互いに「俺は芸能界ナンバーツー。あいつが
ナンバーワンの租チン」と言い合ってた
- 6 :なんてったって名無しさん:2006/02/09(木) 18:01:40 ID:WT3Wex/V
- 昔、若手が車免許を取ったことを知り、「このロールスで練習してみろ」と言い勝は助手席に同乗。案の定車はボコボコに・・。恐縮した若手に対し「これくらいぶつけないと巧くならん、ガハハハハ」と言い放った。
これ多分、地井武男さんの話だと思います。
- 37 :なんてったって名無しさん:2006/07/15(土) 22:13:55 ID:0eN90UXs
- ある取材を無断ですっぽかした勝新。後日その記者の家に勝新から電話があり
「外に出てみな、この間のお詫びにいいもんやるよ」
なんと家の前に高級ベンツが。
※芸界ではけっこう有名な話みたいだ
- 127 :なんてったって名無しさん:2007/11/11(日) 02:41:46 ID:U2WB6vuv
- 昔、勝新太郎がキャバレーでグデングデンに酔ってステージに上がって、
周りで飲んで居た客が不安そうに勝新太郎の動向を見守ったらしい、
勝新はステージに上がるや否や偶然その時店に来ていた緒方拳をステージに上げ酒の飲み合いを始めた。
勝新が一升瓶の酒を飲み緒方拳に渡した。
緒方拳も先輩の薦めもあり断ることもできずその一升瓶の酒を飲んだ。
緒方拳はその一升瓶を飲んでビックリした!
なんと一升瓶の中身は酒ではなく水だったのだ、
そう!実は勝新太郎はその日最初から酒を飲んでおらず
その場に居た客に泥酔してると思わせた完璧な演技をしていたのだという。
緒方拳も勝新に負けじと酔った演技をしたという。
- 144 :なんてったって名無しさん:2008/04/03(木) 19:59:28 ID:z/4TbChv
- 石原裕次郎の葬式で勝新が弔辞?を読むのを見たことがある。
裕次郎の遺影に向かって
「生きながら死んでるような奴ばかりの世の中で、
裕次郎、、、お前だけは違ったな」と。
これを聞いて、なぜか若き俺の胸は痛んだ、
あれから20年、勝新が批判していた「生きながら死んでいる奴」に
俺も成った
伝説7.次ぎはイーグルス(男優・原田芳雄の話。アメリカで座頭市を製作するという話が出たときに,イーグルスの音楽を聞かせて,このグループに音楽を依頼してはどうかと言っていた。まだイーグルスがメジャーになる前の話)
小堺一機の話「牛肉に難癖をつけて,料理人が調べに去ると,”見たかい。あれがほんとの驚いた顔だよ”と。
帰ってきた料理人が確かに本物なんですがと答えると,”わかってるよ,悪かったな”とご祝儀を渡した」
って続きねーのかよ!upキボンヌ!
【ミシュラン】「常連には優しく、一見客には冷たい」 3つ星の寿司屋「すきや橋 次郎」、「最悪」から「絶賛」までの評判★8
544 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/11/22(木) 14:51:40 ID:VZZg5nOp0
思い出した。
ここさ、勝新太郎が行って、次郎が握って最大限のもてなしをしたのに
一見の客を軽くあしらったりしてるのを見て、勝新太郎が、100万
くらいの札束をその場で、ポンと出して
「すいやせん。映画はどんなお客さんでも平等に楽しんでもらえるもんです。
あたしだけ特別あつかいってのは嬉しいんですが、限度があります。
勝新太郎の名に汚れがつくので、これで失礼させていただやす」
て、帰っちゃったんだよな。
そして、一見のお客さんに、
「もっとうまい寿司をごちそうさせていただきやす。
お時間あるんだったら、ご一緒していただけませんか?
お代は心配いりやせん」って言って、他の寿司屋に連れてったらしい。
ルーさん
40 名無しさん@恐縮です 2007/08/05(日) 16:31:27 ID:EmOfjld00
ルーさんかぁ。
うちのオヤジが同じころ一緒に売れない役者やっててさ
勝新太郎のとこに一緒に通ってたんだよなぁ。
オヤジによると、ある日さ、勝さんがハバナ産の葉巻すっててさ、
「どうだ、お前らにも一本やろうか?」っていったら、オヤジとか
馬鹿だから「ありがとうございます」って言ってもらっちゃったんだって。
で、ルーさんにも勝さんが「どうだ、お前も一本」って言ったら、
「お気持ちだけ頂きます。いつか自分の演技で稼いだお金で買います。」
っていって断ったんだって。
で、ルーさんが売れた頃に、その話をすっかり忘れてたら、主演のドラマが
決まったとき、勝さんの名前で、たいそうな葉巻が箱で送ってきて
きてびっくりして、中村玉緒さんに電話したら「勝が、あなたが葉巻をこと
わった日に、自分の一番好きな葉巻を箱で買ってきて「あいつは形はどうあれ
いつか有名になるから、なにかあいつがしでかした時に、こいつを送ってやれ」
って言って、ずっと取ってあったんだってさ。
ルーさん家にたまにオヤジが遊びに行くと、「こいつは、俺が死んだら、みんなで
一本ずつとって、俺の棺にも一本入れてくれよ。」って言うんだって。
オヤジは実家の酒屋ついだけどね。やっぱ、最初から違うんだよ。世に出る人は。
原哲夫と勝新
78 名前: 四十代(東京都)[] 投稿日:2008/09/06(土) 18:35:16.05
ID:kb9fMQ7A0
「巧すぎる絵師」の宿命としての真田幸村のトラブルとは対照的に、こんな心温まるエピソードも
残っている。
「花の慶次」に登場する徳川家康の外見が勝新太郎をモデルにしていることは有名であるが、
あるとき知り合いの演歌歌手の誕生パーティーに原が出席したときのこと。原が隅で料理を
つついていると、ホールの向こう端から全身白のスーツ姿にサングラスをかけた小太りの男が
つかつかと歩み寄ってくるのが見えた。誰あろう、その恐ろしげな風貌の人物こそ、かの勝新
その人であった。
勝は原の目の前に立つと、原の胸を、どんとひと突きした。「―――殴られる。」原はそのとき、
そう直感したという。原は勝に無断で、肖像を拝借して作中に徳川家康を登場させていた。真田
幸村の一件が頭をよぎる。しかし。勝はサングラスをはずし、ぐい、と原に顔を寄せると満面の
笑みを浮かべこう言った。「おめえ、絵が巧いんだな。」それだけ言うと勝は手を振りつつ去って
いったという。
数ヶ月して、原のオフィスに一本の見事な長唄三味線が届いた。紫檀製の胴には見事な綾文
(鑿で内面に彫られる模様細工)、既に昨今では珍しい本皮張りに、象牙の撥(ばち)。時価に
して数百万になろうかという逸品である。それは、三味線職人の次男坊である勝新太郎ならで
はの、原の作画に対する素直な評価、粋な贈り物であった。原は以後この三味線を何度も
作品中に登場させ、前田慶次に弾かせている。
真田幸村のトラブルってのは初登場時に幸村は長渕にそっくりに書いてあった。けど長渕の取り巻きによる抗議で顔を変えたそうです。
最後は玉緒さんのwikiより
勝には「生まれ変わってもあの人と一緒になりたい」といっているほど一途である(無論、勝の人柄にもよる所が大きいが)。勝の晩年には二人舞台で共演した。バラエティ番組に出始めるようになったのも、咽頭癌で臥している勝を励ますためだった。その頃の勝は、もはや発声が困難な状況であり、病室のテレビで玉緒が出演するバラエティ番組を見るのが唯一の楽しみであったという。勝の葬式には晴れ晴れとした笑顔で弔問者を迎え、スポーツ新聞には「東京タワー葬」と書かれた。祭壇のセットに東京タワーが組まれるという異例の葬儀であったが、中村玉緒は勝を明るく見送った。 また、御通夜に浅田美代子が訪れた際であるが、勝が「まだ生きてて、眠ってるような安らかな死に顔」であると説明したら、「これだけお母さん(玉緒)と親交があったのに、生前の勝さんとお会いする機会がなくて(生きてる時の顔が思い浮かばない)」と浅田が言ったのを受け、玉緒は「こんなんですけど・・・」と勝の白布を取って、浅田に死に顔を見せたという話が、後に共演した番組で紹介されていた。
勝と2人の子供のトラブルに悩まされる事も多かった。勝は1978年にアヘン法違反容疑で逮捕され、1990年にもハワイから日本に大麻を持ち込もうとして逮捕された。このときに出演が決まっていたビール会社のCMがお蔵入りしてしまい、損害賠償を請求されることになってしまった。また1982年には長男と長女が大麻密売で逮捕。2年後に大麻取締法違反で再び長男が逮捕。1989年に映画「座頭市」の撮影で、長男が真剣を使い殺陣師を死亡させて業務上過失致死罪で逮捕された。家族4人の中で逮捕歴が一度も無いのは、玉緒のみである。子供たちへの溺愛ぶりも有名で、長男と長女が揃って逮捕されたときには「罪は憎くても子供は憎めない」と語った。長男の初舞台では「息子の出番が少ない」と脚本を自ら書き直すほどの親バカぶりである。
家庭での玉緒と長女は大変なおしゃべりで、豪放なイメージのある勝のほうが閉口していたという。明石家さんまによると娘はドレスを着たガメラといわれている。「世間は私たちが勝を我慢していたように思っていますが、本当は勝が私たちを我慢していました」という。
女優であるが、近年はバラエティ番組やテレビCMの出演も多い。このような現象から、若い世代から「玉緒っち」という愛称で人気を集めている。
たけし・さんまの100万人伝説にゲスト出演したときに、自分のエピソードを語っている。その内容は、いのちの現場からシリーズで共演している佐川満男にしゃぶしゃぶ店に連れて行ってもらったときに、その味が忘れられなかったと感想を述べている。そして、今度は玉緒が佐川に連れて行ってもらったしゃぶしゃぶ店に行きたいときに玉緒が「ねーねー佐川さん。今度シャブ(しゃぶしゃぶを玉緒風に略称)しまへんかー」と佐川にいったことがある。その後、佐川が「俺が人前で話しているときに、シャブって何だと!」困惑・憤慨していた。(おそらく佐川は覚醒剤の俗称である、シャブと勘違いしたと思われる。)
さあこれらを踏まえて早く「座頭市」1989年版を借りるんだ!時代劇なのに英語の挿入歌なんだぞ!